大島口、芸州口、石州口、小倉口の4ヶ所に郵頼していた記念カードが無事に戻ってきました。改めて言うまでもなく第2次長州征伐こと四境戦争は長州藩の勝利に終わり、以後急速に維新回天へと進む転換点となりました。山口県民の義務として風景印押し4種セットを製作しました。
【大島口の戦い】
1866(慶応2)年6月7日、幕府軍艦による上関砲撃で四境戦争が開戦しました。周防大島への攻撃・上陸はそれから4日後の11日でしたので選局は上関郵便局にしました。上関大橋、ミカン、鯛を描いています。
【芸州口の戦い】
現在の山口・広島県境の小瀬川を挟んでの戦闘でした。毛利藩の他に岩国藩兵も当然ながら加わっていたことはもっと知られて良いことと思います。13日夜にも数発の砲声が聞こえたとありますが、実際の戦闘が始まったのは14日のことでした。和木局の風景印には和木町蜂ヶ峰総合公園のバラ園とキャラクターの「はっち」のほか、四境戦争の石碑「封境之地」が描かれています。
【石州口の戦い】
大村益次郎が浴衣姿に団扇をあおぎながら戦闘を指揮したことで有名な戦いです。長州軍は16日に扇原関門を突破して17日には益田での市街戦が始まりましたがわずか1日で決着がつきました。浜田藩が陣取っていた萬福寺には長州兵が放った弾痕が残っています。益田本町局の風景印には石見神楽とともにその萬福寺本堂が描かれています。
【小倉口の戦い】
四境戦争を決したのは関門海峡を挟んだ小倉口の戦いです。17日に高杉晋作が小倉藩領田野浦海岸への上陸作戦を指示して戦端が開かれました。戦闘の実際はかなり際どいもので、熊本藩兵に壊滅寸前まで追い込まれたり、小倉城占領後も小倉藩兵のゲリラ戦に苦しめられたりと「辛勝」と言って良いと思います。講和の約3ヶ月後には高杉晋作も肺結核のため29歳で没しています。
上陸地点にもっとも近いのは門司田野浦郵便局ですが残念なことに風景印の配備がありません。また「小倉」の地名も郵便局名から徐々に消えて「北九州」表示と変わってきています。悩んだ末に門司郵便局を選びました。描かれた関門橋のその足元の関門海峡付近がかつての渡海作戦の場所に近いとご理解ください。
※若干数の製作予備はありますが郵頼あれこれでコストが高くついています。もとより販売を目的として製作したものではないので4種セットの頒布価はメールでお問い合わせください。