昭和42年1月、日本郵趣協会(JPS)東埼玉支部が結成されました。JPS草加支部さらに草加郵趣会と名前こそ変わりましたが、昨年の平成29年に50周年を迎えるという偉業を成し遂げられました。その記念誌を拝読しているところです。おめでとうございます。
関係者の方々はそれぞれのお立場で感慨があることでしょう。私は私で、同会の立役者であった石川昭二郎さんのことを改めて書いてみたいと思います。ひょっとすると私しか知らないことかもしれませんので、これもちょうど良い機会かと思います。
石川さんと初めてお目にかかったのはいつだったか記憶がありません。高校卒業後に上京してから後のことであるには間違いないものの、具体的な日時はさっぱりわかりません。いつの間にか親しくさせていただいていました。若い時は誰でも、若いというだけで恵まれないものです。そんな時に助けてくださった方は間違いなく生涯の師となります。石川さんがまさにそうでした。
上京して間もなくJPS調布支部を再結成しました。ところが、それ以前に存在した府中・調布支部の解散騒動の禍根が尾を引いていてどなたも支部長を引き受けてはくださいませんでした。明日が結成式という晩も八方手を尽くして電話しまくりましたけれど、話を蒸し返されて巻き込まれるのはゴメンだとのこと。結局、世話人の私が詰め腹を切らされる形で、20代の若造が支部長を引き受けるというとんでもない結果になりました。初っ端で郵趣界のダークサイドの洗礼を受けてしまったわけです。そんな厳しい環境の中で石川さんに組織運営のことなど多岐に渡ってご支援いただいたのでした。
その後、三重県の四日市支部と鹿児島支部の再結成とそのサポートを手がけることになるのですが、調布支部のことがあり、以後、私自身が再び支部長を務めることだけは固辞してきました。今もその考えは変わりません。本気で支部長をやるには荷が重すぎます。
東京のデザイン事務所を辞めて鹿児島に移住したのが平成7年。失業中に親戚が多くいる鹿児島に遊びに行ったところ「いつまでプラプラ遊んでるんだ!」と叔母にハッパをかけられまして。しかたなく技術系求職情報だけに特化した”鹿児島人材銀行”(今はないみたいですね)に行ったらたまたま職を見つけただけのことです。鹿児島も私のルーツの一部なので特段の抵抗もありませんでした。つまり、この移住は郵趣とは全く関係がありません。
ところがいつのまにか石川さんが手を回していて、あたかもJPS鹿児島支部を再建するために私が送り込まれたかのように誤解している鹿児島のお歴々がちらほら。あのね、私もそこまで酔狂じゃないです!。
しかし、そんなことがあって平成11年に郵趣活動賞をいただけることになりました。その時の写真、寄せ書きカバーをご覧いただきます。本稿最後に石川さんが亡くなった時の追悼文を再録しておきます。郵趣活動賞の由来や私が考えるフィラテリストの定義など、石川さんと私との師弟関係の中でご理解いただけるものと確信します。
郵趣活動賞をいただいた時の第17回正会員大会(平成11年)の記念写真から。右から窪田毅さん(高知)、石川昭二郎さんそして私です。当時38歳でした。
同時に郵趣活動賞を受賞した3人の直筆サイン入り記念カバーです。上から藤井喜好さん、斉藤昭和さんそして私です。記念カバー自体は谷田部勝浩くん(調布)が用意してくれていました。それにサインをお願いしたわけですが、私以外のお二人ともすでに天に召されました。
受賞者3人の記念写真です。右から藤井喜好さん、斉藤昭和さんそして私です。
<追悼 石川昭二郎氏>
会報「東埼」特別号『故石川昭二郎氏 追悼』より。平成16年4月発行。